サヨナラおじいちゃん(2)~愛の形~
おじいちゃんの乗る救急車から見えた景色は鮮明に覚えているのに、
その後のことが、どうしても思い出せない。
病院へ運ばれた後、おじいちゃんの危篤状態が数日間続いたのは、覚えている…
呼吸が停止した時の青白いおじいちゃんの顔も、今でもよく覚えている。
私は、部屋に閉じこもりがちになり元気が無かったらしいが
そこの部分は、すっかり記憶から抜け落ちているから不思議だ…
人は、自分の心を究極な状態から守らなければならない時には
記憶を失くすことができるのだろうか?
おじいちゃんの呼吸が停止している事を発見してから、おじいちゃんが亡くなる日までの間に私が一番鮮明に覚えているのは、おばあちゃんの後ろ姿だ。
私は、中学生になってもほぼ毎日、おばあちゃんとお風呂に入っていた。
おばあちゃんは、いつも、手の上で洗顔用の石鹸をよく泡立て、時間をかけて顔を洗っていた…少し鼻につく様な香りがするその石鹸すら、今になれば懐かしい
おじいちゃんが亡くなった夜、おばあちゃんは
いつもより長く、いつもより丁寧に顔を洗っていた
湯船につかりながらおばあちゃんの背中を見ていたら
おばあちゃんの背中がかすかに震えていて、泣いているのだとわかった。
おばあちゃんには、おじいちゃんではなくて結婚したい人がいたと聞いたことがある。
その人は戦争に行くことになり、結婚の夢は叶わずに親の勧めでおじいちゃんと結婚したそうだ。
『おじいちゃんは、本当に優しかったから。』
ポツリとつぶやいたおばあちゃんの言葉を、今更思い出し、ふと気付いたことがある。
『愛』には様々な形があるけれど、昔の人達は与えられた状況と相手を受け入れ共に生きる人生のスタイルがそこにあったのだと…
『寄り添う』なんて言葉をわざわざ使わなくても、いい時も悪い時も共に歩み、時を重ねれば、最後に見えて来る『愛』の形が、そこにあるのかもしれない。
おじいちゃんの、命の終わりと
おばあちゃんの涙
今、もう一度思い出してみている…